にっぽんを残そう ものづくり研究所
主な事業
未来に伝えたい技と思い にっぽんの宝人

日本の文化を振り返ってみると、いつの時代にも技を磨いてものづくりに専念した職人や名工達がいました。全国の伝統工芸はそんな職人達が先祖代々からの技を受け継ぎ磨いてきた歴史があります。ところが、海外のコストの安い製品に押され、職人達はやむなく廃業に追い込まれ、未来の担い手である後継者すらいない伝統技術もあります。そんな逆風の時代でも、工芸品を作り続けている名工達。表舞台に登場することもなくものづくりに情熱を傾けている職人。
「ものづくり研究所」は日本職人名工会など匠のネットワークと連携をとりながら、日本の製造業の原点でもある全国の手仕事人たちを支援し、日本の技文化を未来に残していきます。


「にっぽんの宝人」の認定制度
伝統工芸の名工、人の真似できない技をもった匠、未来に伝えたい技術をもった職人を全国から発掘し、「にっぽんの宝人(たからびと)」として認定、技術や思いを未来に伝える活動をします。さらに、製品の展示販売協力、情報発信広報活動、ファンドを使った資金支援などを通じて職人の技文化の復興をお手伝いします。


これまでの主な認定例
文化創造部門 蛍の養殖人  西山一市 氏
めだかの養殖人  二野宮正 氏
屋久杉鞄職人  池田文一 氏
文化継承部門 宙吹き江戸風鈴職人  篠原裕 氏
日本職人名工会推薦 刀匠  小田久山 氏
リヤカー  山田光男 氏
根付職人  桜井広晴 氏
おろし金  大矢昭夫 氏


活動事例のご紹介
意外なところで人気復活リヤカーは夢の未来カー

日本人が生み出した世界の宝、リヤカー。
操縦性に優れ、環境にもやさしいと見直され、いま町中を走り回っている。レジャーに、ビジネスに、そして方採用の必需品として…。
そんなリヤカーを40年間作り続けた男がいる!

成井修司さん
生年月日:昭和23年7月2日
18才で先代の弟子になる。「当時の仲間は競い合って技を覚えた。皆んな昼休みも返上して練習し勉強した。今考えればかけがえのない青春であり、懐かしい思い出です。」昔の鉄パイプの材質が悪く、溶接と曲げにかなりの経験を要した。1年で1つのセクションの手伝い。4〜5年でそこをまかされる。10年で全体が見ることが出来る。設計からとなるとバリエーションもあり15年はかかる世界である。
 
リヤカーが静かなブームを呼んでいる。企業カラーで統一された宅配便の小型リヤカーが路地を走り回り、公園にはおしゃれな移動式カフェが登場、ホテルではシックな色合いのリヤカーが利用され、企業や学校まどでは、災害時に備えてリヤカーを常備しているところが増えている。

「一時は生産が減ったが、ここ5〜6年は、注文が殺到。朝から晩まで設計図とにらめっこです。」と、親方の山田光男さんは語る。
 
日本で生まれた世界に誇れる発明品

リヤカーの歴史は古い。
今から90年近く前の対象10年ごろ、ヨーロッパから輸入されたバイクのサイドカーを見た町の発明家が、鉄パイプで形をつくり、自転車に取り付けたのが始まり。横(サイド)より後ろ(リヤー)の方が沢山積めるだろうと考えて作ったもので、リヤーカーからリヤカーと命名された。当時は自転車が高価だったため、実際には人の手によって引くこと方が多かったが、軽くて操作性に富み、沢山の荷物が積めるリヤカーは、あっという間に全国に広まった。とくに、戦前と戦後の復興期には爆発的に売れ、流通を支える運搬器具の代表として、その地位を確たるものにしていった。

昭和30年代に入ると、八百屋、魚屋。花屋など、さまざまな業種の人たちがリヤカーを引いて商売をするよになり、町のあちこちで目にするほど普及が進んだ。 しかし昭和40年代後半ごろから、モータリゼーションの波に飲まれて次第にその姿を消し、都会では見かけることが少なくなっていたのだ。
 
災害時にも活躍!!見直されるリヤカーえっ!?こんなつかいかたも

ところが近年、リヤカーのよさが見直されている。中越地震では家財道具を運ぶときにリヤカーが使用された。災害に備え、団体に限らずリヤカーを常備する家庭も増えていると聞く。「農業につかう道具」として考えられてきたリヤカーも、「備えの道具」としての役割に目が向けられてきたのだ。

それだけではない。確かな技術と豊富なアイデアをもつ山田親方にも様々な依頼が殺到している。
「子どもの誕生日プレゼントに、ちいさなリヤカーをつくってあげたら、近所で評判になってしまい、その噂をどこで聞きつけたのか、商社マンがやってきて『売りたい』といってきたのです」。親方が制作した幼稚園児用のお運びリヤカーは、たちまち人気となった。「最近は、ディスプレイ用のリヤカーも依頼がおおいですよ」。オシャレなデザインリヤカーも増えている。他にも移動式カフェやフラワーショップ、タクは羽陽のリヤカーなど、リヤカーの使用目的は多様だ。

「犬の車いすを作った事もあるんですよ」。足の昨日を失った犬のため、飼い主からの熱心な依頼を受け、制作した。犬の足が滑らないようにするなど、親方は使う人(犬)の身になtって様々な工夫を凝らした。犬が移動できるようになり、飼い主からは大変喜ばれたそうだ。「犬はよろこんでいるかわからないが」と照れ笑いをする親方の表情からは、ものづくりだけでなく人への愛情があふれている。

親方がリヤカー製造の道に入ったのは18歳のとき。入社の1、2年目は失敗の連続だったという。長い鉄パイプを規格の長さに切断し、ギヤ式パイプベンダーを使って曲げつのだが、当時の鉄パイプは、素材の品質が悪く、曲げているときに、とくボキッとおれた。また、溶接の段階でも気を抜く事は許されない。溶接した箇所を先輩が金槌でカンカン叩くと、ポロっと取れてしまうのだ。

「その度に怒られ、寝る間も惜しんで腕を磨いていたが、ひとつの工程だけでも納得できるまで4、5年はかかった」という。そんな経験をつんで熟練にいたった山田親方。そのリヤカーが活躍する場は広い。
 
アフリカ、南米…世界に飛び出したリヤカー
初めて生産されたタンザニア産リヤカーを囲んだ関係者一同。日本から様子を見に行った芝浦工大のワンゲル部員の姿も見える。
アフリカ、南米…世界に飛び出したリヤカー

また、組み立て式のリヤカーを引いて、南北亜米利加大陸横断に挑戦している山田徹さんのリヤカーも親方による手づくりである。
さらに、親方のリヤカー製造技術は国連っでも認められた。国連の依頼を受けて、アフリカ・タンザニアに40日間の技術指導に出かけたが、このとき継承されたリヤカー製造の技術は、現在アフリカ復興のために活かされている。

リヤカーのエネルギーは人力。エネルギーや環境が、地球全体の問題として叫ばれている今、世界に誇れる日本の発明品、リヤカーは、世界の宝として、世界中に広まっている。


 
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