【建築遺産考Vol.6】市民活動がめざすもの。「駒沢給水塔」
第六回目は、大正時代の町営水道として、渋谷の水道を支えた駒沢給水塔(東京都・世田谷区)をご紹介します。
円柱に王冠をかぶせたような姿はどこかユーモラス。同じ姿で2つ並んだ建物は、給水所としての役目を終えた今でも、地域の風景資産として市民によって守られ続けています。この給水塔が背負った役目とは、またこの給水所を守る保存会がめざすものとは…
町営水道としての役割
時代は大正初期。発展と共に急激に人口が増加した当時の渋谷町は、人口増加による井戸水の不足や水質汚染による飲料水が不足し、町営水道の建設が急務とされていました。多摩川を水源に水道の敷設を単独で行なうことが決まり、実施計画では多摩川の川底を流れる伏流水を集めるために、集水埋渠を構築。砧浄水場(現在の砧下浄水所)で濾過した後に、ポンプで駒沢給水場内の給水塔に送られ、ここから渋谷町の町内全域に自然流下で配水するとされました。
設計の顧問にあたったのは、「近代上水道の父」と呼ばれた工学博士・中島鋭治。東宮御所ほか、明治・大正期に敷設された水道の多くに関係した人物です。
戦災を免れた中世風の意匠
給水塔の外周には「清冽如鑑(セイレツカガミノゴトシ)」、「滾々不盡(コンコントシテツキズ)」の銘文が埋め込まれてています。
給水塔は大正12年に1号、2号基ともに竣工。壁は平均10cmの厚さを持つ鉄筋コンクリート製です。12本のピラスター(付け柱)が給水塔の上部まで伸び、頂上部には直径53㎝の薄紫色のグローブ(竣工当時はガラス製、現在はポリカーボネート製)が取り付けられています。さらにその上に和風の四阿(あずまや)を形どり、屋根を欧風のドーム状にふき上げたパーゴラを設置。中世古城の面影を与えているのが、この塔頂のデザインといえます。「丘上のクラウン」とハイカラな呼び名がつけられたのも、この意匠からくるもの。そして2基の給水塔は、トラス橋で結ばれています。趣向溢れるデザインは、二度のヨーロッパ出張で得た中島博士の建築デザイン感覚にほかなりません。
なお、完成は2号基が先でこちらは関東大震災に遭ったものの、被害を受けることはありませんでした。一方、井戸は枯渇、混濁などで給水の申し込みが増加。1号基が完成したのは、震災から2ヵ月後のことです。また両基は後の大戦による再三の空襲をも幸いなことにくぐり抜けました。
世田谷の名所をめざして
平成11年には給水所としての機能は停止され、現在は震災時に飲料水を供給するための応急施設となっています。約3000トンの水を配水池と2基の塔に少しずつ貯留し、3日間で順次一定量の入れ替え操作が行なわれています。
2002年設立の風景づくり活動を行う地域のまちづくりボランティア団体として設立された「駒沢給水塔風景資産保存会」(愛称:コマQ)では、地域のたからものとして、名所にするためのPR活動を展開。会員募集はクチコミだけのPRでその数は約280名と高い関心を集めています。保存会では給水塔の見学会や講演会、セミナーなどを行なっており、その活動はテレビや雑誌など多く取り上げられ、反響を呼んでいます。
また、東京23区の中でもみどりや水辺などの自然環境や、近代建築などの歴史的文化遺産など、かけがえのない貴重な環境が数多く残されている世田谷では、まちぐるみで財団法人を中心に“世田谷のトラスト運動”が進められています。まちづくり活動にあたっては、「世田谷まちづくりファンド」も設立。全国的にもまだ例を見ない都市型トラスト運動が、今後、建築遺産の保護活動のあり方の道しるべとなるでしょうか。
このシリーズでは指定文化財を問わず、近代を中心に後世に残すべき日本の建築物の歴史と価値を紹介しながら、保護活動のあり方、再生への道すじを探っていきます。
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