【建築遺産考Vol.3】欧州浪漫を感じる「旧開智学校」

第三回目は、明治期のハイカラな香り漂う旧開智学校(長野県松本市)をご紹介します。

木造校舎と聞いて、どんなものを思い浮かべるでしょうか。おそらく多くの人は、校庭に面した大きな窓がある、南向きの教室が一列に並ぶ細長い建物を想像するでしょう。ただ、この姿は明治の中ごろからのスタイルといわれています。明治初期の木造校舎とは一体どのような姿をしていたのでしょうか。

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青空の下によく映える白壁、美しいバルコニー…まるで洋館を思わせるような美しい作り。地元住民の間でも、松本城に次ぐ誇りとしてあり続けてきたのがこの旧開智学校です。明治9年4月に竣工し、その後昭和38年まで90年もの間使用された、日本でもっとも古い小学校のひとつとして知られています。

よく見るとわかるのですが、実際には和洋混交の擬洋風建築です。唐破風の下には二人のエンゼルが舞い、瑞雲の彫刻が施されたバルコニーの下には、さらに龍の彫刻を配置。一方で窓には舶来の色ガラスがちりばめられ、中でも屋根に設置された八角の塔屋に、当時の「文明開化」の風潮を垣間見ることができます。

ギヤマン校舎ができるまで 

このころの学校は、新時代にふさわしい塔のある擬洋風建築の校舎が見よう見まねで建てられていました。外国人居留地などに建つ洋風建築の塔は、当時の人々にとっては強烈な印象を与えるものだったのです。塔の天井には授業の開始を告げる鐘が吊るされ、時を告げる鐘が響きわたりました。

近代化の様相は随所に見る舶来の高価なガラスや色ガラスにもあらわれ、内装のそこかしこにモダンを感じさせます。旧開智学校が「ギヤマン校舎」と呼ばれるゆえんです。(ギヤマンは江戸時代のことばでガラスを指す)

img_006_06松本市文化財ホームページより

開智学校は明治6年、学制による小学校として開校しましたが、当初は廃寺を利用したものでした。筑摩県権令(現在の県知事に相当)である永山盛輝により校舎の建築が推進。永山の命で松本の大工棟梁であった立石清重が設計にあたりました。

学事を施政の中心にすえ、 文明開化政策を強力に進めた永山は「教育権令」の異名を持ったほど。薩摩出身であり、教育の普及にかける意気込みは並大抵のものではありませんでした。彼は学校から教師と生徒数人を引きつれ、巡回式のモデル授業を実施し、村民に対して立身出世したいなら教育が1番、授業料はそのための先行投資と説いてまわったのです。一方、設計にあたった立石は東京や横浜に出向き、ガラスや建築金物の舶来品を手配。東京大学の前身である開成学校など東京の先駆的な擬洋風建築を見聞していきました。

やがて生徒収容数1300人という大規模校舎が完成します。その工事費は、当時のお金で1万1千余円という巨額なものでした。驚かされるのが、そのうちの7割を松本町全住民の寄付により調達されたというのです。残りの3割は特殊寄付金及び廃寺をとりこわした古材売払金などでまかなわれました。永山の熱意が伝わったのは当然ながら、地域住民の学校に対する思い入れ、それは日本の将来に対する希望でもあったのでしょう。なお、同県の佐久市にある日本最古の洋風学校、旧中込学校もまた、住民の寄付によるものです。

近代教育の先駆的存在

校名にもその時代の気概を感じさせます。当時、時代にふさわしい言葉を用いられる傾向がありました。「開智」の校名も、「被仰出書」の文中にある「~人々自ヲ・・・・其身ヲ修メ智ヲ開キ才芸ヲ~云々」から命名されたといわれています。

もともと長野県では、江戸時代の寺子屋数は一番多かった(日本教育史資料)とされ、教育熱の高い地域でもありました。明治初期の小学校は、多くが寺子屋の延長でしかなかった中、開智学校では教則に準拠しつつ、読本課・算術課・習字課を設け、英字課が置かれたようです。

また開智学校には、明治時代を通じてさまざまな教育機関が併設され、今日の幼稚園から大学、図書館、博物館にいたっています。
・師範講習所(明治6年)→信州大学教育学部
・変則中学校(明治9年)→県立松本深志高校
・付属幼稚園(明治20年)→市立松本幼稚園
・開智書籍館(明治24年)→市立松本図書館
・明治三十七、八年戦役紀念館(明治39年)→松本市立博物館
・盲人教育所(明治45年)→県立松本盲学校

風土と県民性を伝える存在へ

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旧開智学校をはじめとし、学校建築に対する長野県の思いの強さはなにも明治期だけに限りません。同県塩尻市立木曽楢川小学校は、平成3年に地元のひのきをふんだんに使った木造校舎を新築しました。木の温もりや香り、自然の調湿機能など、木の良さが再び見直されています。

当の旧開智学校は昭和36年、明治時代の擬洋風学校建築としては初となる重要文化財に指定されました。女鳥羽川のほとりにあった校舎も、河川改修のため工事費2,873万円をかけて移築。翌年の昭和40年4月、教育熱心といわれる風土と県民性を映す鏡として教育博物館に生まれ変わり、今日にいたります。

このシリーズでは指定文化財を問わず、近代を中心に後世に残すべき日本の建築物の歴史と価値を紹介しながら、保護活動のあり方、再生への道すじを探っていきます。

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【建築遺産考Vol.2】近代化もまた京都の美なり。「南禅寺水路閣」

第二回目は、京都の風景に美しくとけこむ近代化遺産をご紹介します。

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湯豆腐料理で知られ、多くの観光客が訪れる南禅寺。禅寺のなかで最も高い格式を持つ名刹の代表です。その南禅寺に訪れると、近代的なレンガ造りの建築物を目にします。

左右に長く連なるアーチから漂う異国情緒。間近で見ても遠めから眺めても姿美しく、
古代ローマの水道橋がモデルと聞けば誰しもがうなづけるものがあります。

これこそ京都の近代化の礎となった琵琶湖疏水事業の一環で建設された水路閣です。
当初は付近住民から景観を損なうという理由で反対を受けつつも、今ではすっかり由緒あるお寺と相容れる、趣あるたたずまいとなりました。
いまもなお見上げたそこには、琵琶湖の疎水(支流)が流れ続けています。

旧都のプライドをかけた一大事業

明治の幕開けとともに、首都は東京へ遷都。これに伴って京都は人口の三分の一を一挙に失い、産業の衰退という事態にまで陥りました。かつての都としての活力を失ったことへの危機感が募り、復興をかけて長年の課題でもあった琵琶湖から京都へ水を引く大事業が始まったのです。

幕末から明治にかけて近代化をめざしたこの時代、とりわけインフラ面の整備では、西欧の先進技術や知識を学ぶために「お雇い外国人」たちが主役でした。
そんな時代の流れの中、明治18年に着工した琵琶湖疎水は、設計監督に工部大学校(現東京大学工学部)を卒業したばかりの田辺朔郎を起用。かつ日本人のみで設計、施工したという土木技術史上においてもきわめて価値ある事業とされています。

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疎水事業そのものはたいへんな紆余曲折を伴うものでした。
まず計画の段階にて市の年間予算の十数倍という巨額の工事費に伴い、
国や府での助成ではまかないきれず、増税を行うことでの市民からの批判や、
あるいは近隣の県に対する補償問題も起こり、着手までに4年の歳月が費やされました。

さらに大規模な事業でありながら、ほとんどを人力に頼る工事は多く難局を迎えます。
ダイナマイトとセメント以外の大半の資材は自給自足、夜に技術者を養成、昼に実践するという現代では想像のつかない日々。とりわけ難関となったのは当時では国内最長の2kmにわたる第一トンネルの工事でした。
成功を疑われつつ、わが国ではじめて竪坑方式の工法を採用。山の上から垂直に穴を掘ってそこから両側に向かって工事を進めることで、開通にこぎつけました。
着工前後に何度も見直された疎水の計画、あるいは利用方法さえも着工後に変更されながら、明治18年に起工し、伏見までの第一疎水が竣工したのは明治27年のことです。

疎水の開通から始まった日本初

大事業のそもそもの目的は、疏水の水力で新しい工場を興し、大阪湾と琵琶湖間の通船によって物資の往来を増強させるほか、灌漑用水や防火用水といったものが主でした。しかしさまざまな壁にぶつかり、乗り越えた疎水事業は当初の予定からその役割は拡大、発展していったのです。

たとえば蹴上から九条山にかけての582m、高低差36mという急勾配に対し、登場したのは船を台車にのせてレールを上下させるというインクライン。琵琶湖と淀川が結ばれて京都の産業発展に大いに貢献しました。

また、疎水の利用方法について米国へ視察に行った田邉朔郎ほかが、工事の途中で水力発電の実用化への踏み切ったことも産業史にとって大きな決断となりました。わが国で最初の商業用水力発電所となった蹴上発電所の登場は、日本初の路面電車となる「京都電気鉄道 伏見線」の開通へと発展していきます。

やがて電力需要の高まり、水道用水確保の必要に迫られて明治41年には第二疎水の工事が始まりました。同時期には蹴上に浄水場も建設され、今日の上水道の水源に続いています。疎水事業に関わる、水路閣、インクライン、竪坑をはじめ、多くの建築物が近代化遺産として国の史跡に指定されました。まさにその歴史的価値を表しているというものです。

もうひとつの歴史に思いをはせて

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京都にはこうして寺社だけでない、誇るべき建築物があります。
水運の消滅にともないインクラインは廃止されましたが、蹴上で一部形態保存されています。インクライン跡は自由に歩けるので、その高低差を体感してみるのも面白いかもしれません。一方、発電所のように改修されつつも、重みある歴史のうえに立ち、現役で活躍する近代化遺産は貴重なものといえるでしょう。
なお疎水の維持管理は、京都市上下水道局のもとに停水時期を設けての補修等が行われています。また、疎水の歩みを知る施設として100周年記念の際には南禅寺近くに疎水記念館が設立されました。

京都が持つもうひとつの歴史に思いをはせてみてはいかがでしょうか。
歴史的風景になじんだ疎水は、南禅寺ほか銀閣寺わきの哲学の道でも見られます。

このシリーズでは指定文化財を問わず、近代を中心に後世に残すべき日本の建築物の歴史と価値を紹介しながら、保護活動のあり方、再生への道すじを探っていきます。

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【建築遺産考Vol.1】「餘部鉄橋」の再出発

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またひとつ失いゆく美しき風景と歴史。
「パリのエッフェル塔に匹敵する価値がある」とも称され、多くの鉄道ファン、観光客に愛され続けた兵庫県・香美町の『餘部橋梁(あまるべきょうりょう、通称:餘部鉄橋)』。
1912年の開通以降、独特の構造を持つ鮮やかな朱色の鉄橋と、その横に広がる日本海と美しいコントラストが山陰本線の絶景ビューポイントとして広く知られました。

しかし激しい老朽化と定時運行の確保を目的に、2007年春よりコンクリート橋への架け替え工事が開始され、2010年秋の完成に向けて着々と工事が進められています。
餘部鉄橋はその景観の美しさだけでなく、初期の鉄道建築の歴史的価値を知らしめる存在であり、架け替え工事に多くの人が惜しむ声を上げました。

日本最大のトレッスル橋の完成まで

山陰本線全線が開通するために、餘部鉄橋は最後で最大の難関といわれました。
地理的に見て、香住町(現・香美町)から浜坂町(現・新温泉町)までの日本海沿いの地帯は険しい山岳地帯であり、とりわけ余部集落付近は特殊な地形から、集落を跨ぐ形で線路を繋がなければならなかったのです。いくつかの工法が検討されたものの、最終的にアメリカ人技師ウルフェルス設計の元でトレッスル橋の建設が決断されました。

橋脚の鋼材はアメリカンブリッジ社の工場より門司港経由で余部沖に輸送し陸揚げ。桁は石川島造船所(現・石川島播磨重工業・IHI)が製作し、神戸より陸送と日米合作による大掛かりな工事となったのです。
着工は1909年に始まり、開通は1912年。33万円(現在の貨幣価値に換算して約42億円)もの巨費と、延べ25万人を超える工夫が投入されました。大変危険が伴う工事であったため、作業員には2万円もの保険が掛けられたといいます。

そして長さ310.59m、高さ41.45m。11基の橋脚、23連というその完成した姿は、
以後日本最大規模のトレッスル橋として人々を魅了し続けました。計算尽くされたその機能美は「日本の近代土木遺産」(土木学会土木史研究委員会)においても最も重要な土木遺産で、国指定重要文化財に相当するAランクに選ばれたほどです。

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餘部鉄橋が記憶する転落事故

鉄橋のその美しさの影に隠れるような悲しい転落事故があったのもまた事実です。
1986年12月28日、回送中のお座敷列車「みやび」が日本海からの突風にあおられて
鉄橋中央部付近から機関車と客車の台車の一部を残して7両が転落。さらに転落した
車両は真下の工場を直撃し、計6人の命が失われ、6名が重傷を負うというものでした。

現在では風速20m以上で香住駅~浜坂駅間の列車運行停止の措置がとられているものの、架け替えの目的には、こうした強風時における輸送力の低下の改善も含まれ、完成に合わせて京阪神から但馬、山陰を結ぶ新型の特急車両の導入も計画されています。
事故現場に残る慰霊碑は、かつての姿を失う鉄橋に何を思うのでしょうか。

保護?撤去?餘部鉄橋の再出発

鉄道が開業した明治より時を経た現在。鉄道には残すべき多くの遺産があるものの、
優先するべきは安全性です。老朽化による維持費、耐久性といった問題は保護という観点からは相反する、永遠のジレンマでしかありません。

なお兵庫県では、餘部鉄橋の活用法を県民から提出された意見や要望を反映した施設整備が策定されました。鉄橋の一部を利用した展望台「空の駅」、新たなコンクリート橋直下に設ける道の駅、鉄橋記念施設とここから餘部鉄橋の再出発が始まります。

このシリーズでは指定文化財を問わず、近代を中心に後世に残すべき日本の建築物の歴史と価値を紹介しながら、保護活動のあり方、再生への道すじを探っていきます。

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