【建築遺産考Vol.1】「餘部鉄橋」の再出発
またひとつ失いゆく美しき風景と歴史。
「パリのエッフェル塔に匹敵する価値がある」とも称され、多くの鉄道ファン、観光客に愛され続けた兵庫県・香美町の『餘部橋梁(あまるべきょうりょう、通称:餘部鉄橋)』。
1912年の開通以降、独特の構造を持つ鮮やかな朱色の鉄橋と、その横に広がる日本海と美しいコントラストが山陰本線の絶景ビューポイントとして広く知られました。
しかし激しい老朽化と定時運行の確保を目的に、2007年春よりコンクリート橋への架け替え工事が開始され、2010年秋の完成に向けて着々と工事が進められています。
餘部鉄橋はその景観の美しさだけでなく、初期の鉄道建築の歴史的価値を知らしめる存在であり、架け替え工事に多くの人が惜しむ声を上げました。
日本最大のトレッスル橋の完成まで
山陰本線全線が開通するために、餘部鉄橋は最後で最大の難関といわれました。
地理的に見て、香住町(現・香美町)から浜坂町(現・新温泉町)までの日本海沿いの地帯は険しい山岳地帯であり、とりわけ余部集落付近は特殊な地形から、集落を跨ぐ形で線路を繋がなければならなかったのです。いくつかの工法が検討されたものの、最終的にアメリカ人技師ウルフェルス設計の元でトレッスル橋の建設が決断されました。
橋脚の鋼材はアメリカンブリッジ社の工場より門司港経由で余部沖に輸送し陸揚げ。桁は石川島造船所(現・石川島播磨重工業・IHI)が製作し、神戸より陸送と日米合作による大掛かりな工事となったのです。
着工は1909年に始まり、開通は1912年。33万円(現在の貨幣価値に換算して約42億円)もの巨費と、延べ25万人を超える工夫が投入されました。大変危険が伴う工事であったため、作業員には2万円もの保険が掛けられたといいます。
そして長さ310.59m、高さ41.45m。11基の橋脚、23連というその完成した姿は、
以後日本最大規模のトレッスル橋として人々を魅了し続けました。計算尽くされたその機能美は「日本の近代土木遺産」(土木学会土木史研究委員会)においても最も重要な土木遺産で、国指定重要文化財に相当するAランクに選ばれたほどです。
餘部鉄橋が記憶する転落事故
鉄橋のその美しさの影に隠れるような悲しい転落事故があったのもまた事実です。
1986年12月28日、回送中のお座敷列車「みやび」が日本海からの突風にあおられて
鉄橋中央部付近から機関車と客車の台車の一部を残して7両が転落。さらに転落した
車両は真下の工場を直撃し、計6人の命が失われ、6名が重傷を負うというものでした。
現在では風速20m以上で香住駅~浜坂駅間の列車運行停止の措置がとられているものの、架け替えの目的には、こうした強風時における輸送力の低下の改善も含まれ、完成に合わせて京阪神から但馬、山陰を結ぶ新型の特急車両の導入も計画されています。
事故現場に残る慰霊碑は、かつての姿を失う鉄橋に何を思うのでしょうか。
保護?撤去?餘部鉄橋の再出発
鉄道が開業した明治より時を経た現在。鉄道には残すべき多くの遺産があるものの、
優先するべきは安全性です。老朽化による維持費、耐久性といった問題は保護という観点からは相反する、永遠のジレンマでしかありません。
なお兵庫県では、餘部鉄橋の活用法を県民から提出された意見や要望を反映した施設整備が策定されました。鉄橋の一部を利用した展望台「空の駅」、新たなコンクリート橋直下に設ける道の駅、鉄橋記念施設とここから餘部鉄橋の再出発が始まります。
このシリーズでは指定文化財を問わず、近代を中心に後世に残すべき日本の建築物の歴史と価値を紹介しながら、保護活動のあり方、再生への道すじを探っていきます。