JR高崎線・深谷駅
明治の実業家、渋沢栄一は当時の東京改造計画に使う煉瓦を大量生産するために東洋一かつ日本初機械式煉瓦工場を出身地である埼玉県の深谷に設立しました。その煉瓦で東京駅が造られました。写真の駅舎は平成8年に建設された深谷駅。東京駅にそっくりです。
明治の実業家、渋沢栄一は当時の東京改造計画に使う煉瓦を大量生産するために東洋一かつ日本初機械式煉瓦工場を出身地である埼玉県の深谷に設立しました。その煉瓦で東京駅が造られました。写真の駅舎は平成8年に建設された深谷駅。東京駅にそっくりです。
第五回目は、様相美しい南海本線・浜寺公園駅(大阪府堺市)をご紹介します。
まず目に飛び込んでくるのは丸みを帯びた玄関の柱。
全体を眺めてみると、随所に見られる曲線使い、
ホワイトと淡いブルーの上品な壁や梁に、女性的な美しさを感じられます。
そして赤い屋根といい、さながら赤い傘をさしている貴婦人のようではないでしょうか。
幾度かの化粧直しをしながら、現在の駅名に改められた
明治40年(1907年)から続く駅舎。
私鉄最古という歴史の古さに限らず、その美しい佇まいは
多くの鉄道ファン、地元住民に愛され続けています。
何よりこの美しい駅舎を設計したのは、
かの東京駅や日本銀行本店を設計した辰野金吾、
明治から昭和期に大阪で活躍した建築家、片岡安。
彼らの手がけた作品といえば、銀行や大学、庁舎など重厚長大なものばかり。
この浜寺公園駅のようなエレガントさが主体となった作品には
なかなか驚かされるものがあります。
それに規模で見ても、小さな駅の設計に。
偉大な建築家が参加した理由はどこにあったのでしょうか…
そもそも浜寺公園駅の役目は、海水浴場への玄関口でした。 明治期の当時、海水浴はまだ西洋から輸入されたばかりのレジャー。
ごく限られた人だけが楽しめるハイソなレジャーの玄関口として、
訪れる人にふさわしい“身形”が必要だったのです。
駅にはじまり、街全体に西洋感覚が溢れました。
現在でも大阪府屈指の高級住宅地としてあり続けるのは、
別荘や高級住宅が立ち並んだ、当時の歴史からのつながりなのです。
梁や柱を壁に埋めずに装飾模様として活かし、
その間に漆喰を埋めていくハーフティンバー様式も、
正面の屋根窓や鹿鳴館の雰囲気を残した玄関の柱も、
その時代を映す鏡といえるのかもしれません。
旧一・二等待合室は「浜寺ステーションギャラリー」として
地元の人に活用されるなど、街にとけこんだ浜寺公園駅も、
大阪府が行う連続立体交差事業によって駅舎の撤去・解体という問題に直面しました。
しかしながら、駅舎の保存活用の懇話会の最終会合で
高架に伴って造られる新駅正面に移築されることが決まったそうです。
住民にとって新たな憩いの場として、あるいは新しい待ち合わせスポットになるのか、
今後の動向もまた注目したいところです。
このシリーズでは指定文化財を問わず、近代を中心に後世に残すべき日本の建築物の歴史と価値を紹介しながら、保護活動のあり方、再生への道すじを探っていきます。
※すべて写真は、下記サイトよりご提供いただきました。
「Station Photographs-駅と駅舎の写真館」http://lagare.s29.xrea.com/